手塚治虫のマンガの描き方
(講談社)
天才漫画家 手塚治虫氏が書いた、今となっては隠れた名著。
テクニックに関することだけでなく、メンタルな部分についても積極的に言及。プロからアマチュア、全くのシロウトさんまで読んで損ナシ。原点。
ボッコボコ。
演繹帰納で 理解

おおお。いいんじゃねぇ? 感動的じゃねぇ? すげぇヒューマンだね。
新しいキャラもできたし、ノリツグだけにノリノリだな、オレ。なんちゃって。笑えよ、オラ。
ウキウキ気分で妄想を続けるオレ。気付けば、誰かが部屋に入ってきていた。誰? もしかして、ペン大王?
「ど、どうしたんすか? その顔。ものすげぇふくれてますよ」
「田倉さんとオマエに殴られたところが腫れちゃってさ。顔の大きさ、倍になっちゃったよ」
「ホントに倍になってますね」
「だろ? すげぇ重いんだよ、顔が。体の一部が重い感覚って初めてだな。グラビアアイドルも自分の胸のこと、こんな風に感じてるのかなぁ。乙葉ちゃんとかさ」
「知らねぇよ」
「ところで、何ウキウキしてたの?」
「イヤ、それがね。いいストーリーが思い浮かんだんですよ」
オレはペン大王にストーリーを話す。ユキダルマッチョがユキダルメシアンと共にアフリカの大地に降り立ったこと。サイ王と戦ったこと。子供たちに雪を見せてあげたこと。
「帰納法」
「? なんすか?『帰納法』って」
「バイブルに載ってるよ。『演繹法』と『帰納法』」

演繹法---これが→こうなり→こうなった。あるものが動きだして。とんでもないことになってしまった、というかたち。
たとえば、リンゴがあるとする。リンゴが転がり→下にいた猫にぶつかって→おどろいた猫は犬を追いかけた。
---中略---
帰納法---これがこうなっている→そのわけはこうだ。ある出来事は、こういう原因で起こったのだということをたしかめるかたちである。
リンゴがここに落ちている→そそっかしいおかあさんが猫をふんづけ→籠をひっくり返したので、転がってきたのだ。
---中略---
案の考え方は、演繹法と帰納法のどちらを使ってもかまわない。しかしもちろん、方法だけ知っていたのではなにもならない。この方法を使って、あたりを見まわしてみよう。必ず案になりそうなものが見つかるはずだ。
---中略---
はじめのささいな出来事が、多くの人々にべつの影響を与えて、そこからどんどん話がひろがっていけば演繹法である。
人々がそれぞれ勝手なことをしていても、結局たったひとつの目的であったとすれば、これは帰納法を用いたということになる。(116ページ)


「手塚さんは我々にわかりやすく、しかもマンガのストーリーを作るということに特化して、すんごく易しく説明してくれてるけど、例えばベーコンが主張した経験論は帰納法の上でないと成り立たない。それも4つのイドラを踏まえて出てきた結論なのだけど・・・」
「あー、うるっせぇ。日本語で話せよ、こんにゃろ」
「簡単に言うと、これもバイブルに書いてあることだけど、最初からオチを考えて、それに合わせ物語を作っていくか、行き当たりばったりに物語を考えていくかの違い。ユキダルマッチョの場合、最終的には『子供たちに雪を見せる』ってオチがあるだろ? 全ては雪を見せるために起こる出来事だ」
「なるほど。最初からそう言いなさいよ」
「オチが決まっているから安心して見れるし、わかりやすい。ユキダルマッチョストーリーは帰納法の中でも水戸黄門とかと一緒の部類だね」
「モロに勧善懲悪ですからね。でも、悪者がただの悪者じゃないですけど」
「それと、ユキダルマッチョの偽善者っぽいところが、黄門様とはちょっと違うね」
「ねぇ。おもしろいっすよねぇ、その設定」
「おもしろいかどうかは別として、作者の性格を見事に反映してるなぁ、と思ってさ。感心してたんだよね」
「ん? どういうこと?」
「ユキダルマッチョのナルシストで自己中で偽善者なところとか、オマエそのものだなぁ、ってこと。ユキダルメシアンとかもさ。オマエの実家にいるバカ犬ソックリじゃん」
「顔の大きさ、三倍にしてやろうか?」
「あ、ウソ。ゴメン」
「今の話でいくと、この連載『拝啓 手塚先生』は『帰納法』見えて、実は『演繹法』ですね」
「展開メチャクチャだからな。この先、どうなんのか、誰にもわかんねぇし」
ホント、わかんねぇ。