September 10, 2003

猫が笑った日 A-1

 ヨッチャンはいかにも怪し気なその扉を押すと、あたかも自分の家のような気軽さで、中へ入ろうとした。私はなんとなく嫌な予感がしたので、入口の前に立ち止まり部屋に入るのを躊躇した。
「でも……こんなとこに来たって、たぶん何もないよ」
「そんなことわかるもんか。おれはとにかくここが怪しいと思っただけなんだからさ……なんとなくだけど」
 ヨッチャンは相変わらずの意固地だ。少しだけ妥協すれば必ず良い方向に転がると何度言ったとしても、まったくの相変わらずだった。私はヨッチャンの意固地につきあって何度無駄骨を折らされたかわからない。でも、やはりヨッチャンの真剣な眼差しを受け止めてしまうと、ダメだダメだと頭で理解していても、心が納得してしまう。そして無駄骨を折る。そんなことが幾度も繰り替えされたけれど、私はヨッチャンが好きで、ヨッチャンの好きなようにしてほしい想いもあるから、しょうがないと半ば諦めている。でもやはり、ほんの少しだけでもいいから私のことを考えてくれないかと、つまり、妥協を私のためにしてくれないかと願っている。
 私はヨッチャンに促され、暗闇で満たされた部屋の中に恐る恐る入った。
 部屋の中は大部分が暗闇だが、中央付近に立っている一本の巨大な蝋燭に火が点っていた。そのおかげで、細部まで把握することはできないけれど、おおまかになら部屋の様子をつかむことができた。部屋の広さはだいたい縦横十メートルほどの正方形状で狭いのだが、暗闇のせいか、部屋に充満する空気のせいか、見た目ほど狭くは感じなかった。部屋の中には蝋燭と、蝋燭が置かれている丸テーブル、壁の周りを埋め尽くした天井に届きそうなほど背の高い本棚と、本棚に納められた数多くの本がある。個人が所有可能な本の数ではないからここは本屋なのだろうか。そうだとすると今回はヨッチャンの意固地が正しいことになる。そう思ったとき、蝋燭の明かりが微かに届く部屋の角から人の視線を感じた。
「ヨッチャン……ねえ、やっぱり帰ろうよ。なんかイヤな感じだよ、ここ」
「大丈夫だよ。べつにおれたち本を盗みに来たわけじゃないんだから。ただ、探しに来ただけなんだから」
「でも、ほら……誰かこっちを睨んでるよ」
 ヨッチャンはポケットからライターを取り出して火を点けた。小さな炎が部屋の暗闇をほんの少しだけ取り払うと、私が感じた視線の持ち主の姿が暗闇から溶け出した。私達がいる入口附近に身体を向けて、ひとりの黒人(だと思う)がロッキングチェアに座っていた。ライターの炎が彼の瞳を浮かび上がらせた。表情はいまいちつかめないのに、瞳だけははっきりと暗闇の空中に浮かんでいた。彼の瞳は少しおかしかった。血走っている様にも泳いでいる様にも虚ろな様にも見えた。しかし、私達に対して敵愾心を持っていることだけは確かなようだった。その奇妙な瞳は寸分の狂いもなく私達に標準を合わせていた。すると二つの瞳がこちらに向かって飛び出してきた。瞳は私達の手前まで近づくと、写りこんでいた私達の映像を飛び出させた。しかし、彼らは私達とそっくりというわけではなく、どこか奇妙に歪んでいた。
 彼らは私達に向かって一礼すると両手を高々と上げ、ミュージカルのように歌い踊りながら、私達に向かって話しているのか、前もって決まっているセリフなのか、どちらともつかないような調子で喋り出した。
 
 ココニハイルニハアルコトヲシナイトダメナンダヨネ、ミッチェル?
 ソノトオリソノトオリソノトオリダヨ、レイチェル。
 ナニヲスルンダイ?
 ナニヲスルノカナ?
 ミッチェル!
 レイチェル!
 ハヤク!
 ハヤク!
 ワタシヲ!
 ワタシヲ!
 コロシテ!
 コロシテ!
 アアアアア!
 アアアアア!

 そして彼らは動かなくなった。
 私は事態を飲み込めずに呆然と立ち尽くした。いったいこの人達は何なんだ?
 私達に似てはいる。しかし、その身体は全体的に奇妙にねじ曲がっていて、先ほどのように歌ったり踊ったりできるようには見えない。しかも身体は透きとおっていて、彼らの背後にはあの黒人の瞳が無気味に浮かんでいた。だが、私にはそんな彼らを人間としか感じることができなかった。確かに見た目は人間の態を成していない。生きているのが不思議なほどだ。それでも私には彼らが発している生々しい存在感は無視できなかった。それは人間のものだった。
 私はこの場から消えてしまいたいほどの恐怖感に襲われた。そして思わずヨッチャンを見た。ヨッチャンは普段と変わりない冷静な顔をしていたので私は少し安心した。
「……殺すったって、道具がないな。どうしよう」
 ヨッチャンが冷静な顔でそんなことを口にしたので私はまた唖然としてしまった。
「えっ……? ヨ、ヨッチャン……何言ってるの。殺すって……そんなことしたら捕まっちゃうでしょ」
「でもなあ。こいつらを殺さないと奥に進めないみたいだし……。だったら殺るしかないだろ」
「引き返すっていう……」
「ダメだダメだ。ここには何かあるんだ。奥に行けばたぶんヒントぐらいはあるだろ」
「でも……」
「さっきから何ごちゃごちゃ言ってるんだよ。お前があれだけ駄々こねるから、こうやって探してるんじゃないか」
「そうだけどさ……。でも、やっぱりそんなことしちゃ駄目だよ。ね?」
「おれだって人殺しなんかしたくないさ……。でも、おれはおまえのためだったら何でもやってみせるぞ」
 その言葉に私は深く感動した。嬉しくて涙が出てきた。私はヨッチャンの首に両手を絡ませ、キスをした。ヨッチャンも私を強く抱きしめてくれた。
 愛を確かめあった私は俄然やる気が出てきた。
「ヨッチャン。殺す道具を探しに行こうよ」
「そうだな。とりあえず、そうしよう」
 私達はその部屋を出ると、道具を探しに街へ戻ることにした。

Posted by yuuya at 05:34 PM | コメント (0)

September 08, 2003

猫が笑った日 プロローグ

 猫が朽ち果てる本を読みたい。
 ねぇ。
 猫が朽ち果てていく本が読みたい……。

 横で熟睡しているはずの彼女が何かそんなことを言った。うつらうつらしながら本を読んでいたので、はっきりそうだとは断言できない。
 本を閉じて彼女のほうに寝返りをうち、寝顔を静かに眺めた。
 彼女はいつもどおりだった。これほど安らかな表情で眠れる人間を他に知らない。すべての力が抜けきっていて、まさに“休息”という感じが伝わってくる。しかも彼女は寝息をほとんどしない。もちろんしているのだが、彼女の口元まで耳を近づけないと呼吸音が聞こえない。胸もほとんど上下に動かないから、初めて彼女の寝ている姿を見た人は「死んでいるんじゃないか」と勘違いするだろう。僕も彼女と初めて同じベッドで眠った夜、驚いて思わず揺すり起こしそうになった。
 彼女は夢を見ない。彼女自身はそう信じこんでいる。しかし、「そんな人間はこの世に存在しない」と彼女に言うたびに、「私は他の人とは違うのよ」と返してくる。彼女が夢を見ないと言っているのは、おそらく内容を憶えていないだけだろう。そういう人間は世の中にたくさんいる。しかし、彼女は「今まで一度も夢を見たことがない」と言っている。つまり、一度たりとも夢の内容を憶えていないことになる。ここまでくると珍しいことだ。
 彼女と違って僕はよく夢を見るほうだ。と思う。不思議なほど夢の内容を鮮やかに憶えている。しかも奇妙な夢ばかりで、彼女は僕の夢の話をいつも楽しみにしている。夢の話を彼女にすると、彼女はプレゼントをあげた子供のように嬉しそうな微笑みを浮かべて耳を傾ける。そして、話が終わった後に必ず「あなた、病院行ったほうがいいよ」と真顔で言う。その落差があまりに大きく、病院行きを勧める彼女の顔があまりに真剣なので、僕は最近本気で行くつもりになってきている。
 彼女の寝言のせいで眠気が吹き飛んでしまったので、再び本を読み始めることにした。
 明日、彼女に寝言のことを訊ねてみようと思ったが、すぐに無駄だと気づいた。彼女はどうせ「夢なんか見てないわよ」と言うに決まっているからだ。

Posted by yuuya at 09:32 PM | コメント (0)