第II部 そのあと
PHASE V 「うそが売り物」
●マンション・リビングルーム(10月10日午前4時)
薄暗い室内。ソファに深く腰を下ろし、疲れきった表情で中空を凝視する須田明。赤ん坊の泣き声が幻聴のように耳に響いてくる。

●同・バルコニー
二匹の猫が向かい合い、盛り声を発している。

●同・リビングルーム
ソファに座ったまま、ト書きを読むように口を動かす須田明。

須田明 「…じっとしていると汗が吹きだしてくる。頭のなかは空っぽだ。なにごともきりがない…」

だるそうに腰を上げ、トレーナを脱ぎ、シャワールームへ向かう。

須田明 「…エアコンは故障して送風の能しかない。昨夜からお前はまんじりともできないまま興奮していた。なんの記念もありはしないが…」

ふと何かの匂いに気づき、寝室のほうへ目をやる。

須田明 「…部屋のあちこちにむっとするような熱気の塊がある…」

●同・寝室
ベッドに横たわる裸の女。シーツが赤く染まり、床にナイフが落ちている。彼女の乳房から首筋をなで、唇にそっと口づけする須田明。一瞬、山下響子の容貌が津村美沙、そして日比野まりとなる。

須田明 「…それを裏切りと呼んだのはお前ではなかった…」

○試写室

円城寺満 「おい、ストップ。止めてくれ」

編集ラッシュを見ているスタッフたち。エディターの戸崎勇一が怪訝な表情。

円城寺満 「いや、ちょっと気になったんだが…。山下響子の顔、おかしくなかったかい?」
戸崎勇一 「おかしいって、動いてましたか? OKテイクですけどね」
円城寺満 「そ、そうだよな…」

と、横に座る津村美沙を見る。

津村美沙 「どうしたのよ。私も全然おかしく見えなかったわ」
円城寺満 「うん、続けてくれ」

とわずかに表情を歪めたあと、部屋が溶暗する。

●シャワールーム(10月10日午前5時)
バスタブにつかる須田明。

■遊園地
そう名づけられているが単なる公園といっていいほど何もない。矩形に仕切られた閑散とした場所で三輪車を走らせる数人の子ども。ベンチに座った初老の白人が葉巻をくゆらす。そこへ綿菓子を持ったフィリピン女性がやってくると、姉弟らしき子どもが三輪車を捨てて駆け寄る。

○皇居外苑(早朝)
並木のなかを喘ぎながらジョギングする須田明。二日酔いなのか落ち込んでいるのか顔色が冴えず、胸をむかつかせ、膝をつき、木にもたれたりする。

○一ツ橋付近
脇腹をおさえて歩いている須田明。鉛色の空を見上げ、周囲を見まわす。首都高の高架、皇居の緑、武道館の威容、林立するビル群に眩暈を覚え、しばらく立ちすくむ。

○紀尾井町付近
ついに堪えきれず、橋の脇を降りて嘔吐する須田明。お堀の腐食した水面に我が顔を映し、やがて腰を落とす。橋の上から男の声が聞こえてくる。

阿仁屋優 「こうだと思った。迎え酒なら持ってるぜ」

と、ウイスキーの容れ物を示す。少し酔っ払い気味だ。

須田明 「どうしてここに…。朝まで飲んでたのか」
阿仁屋優 「ふらふらジョギングするほうこそ異様な姿で、まるで見つけてくれといわんばかりだろう。…もう少し話したいと思っていたから、俺にはいいタイミングだったがね」

と、須田のほうへ降りてくる。

須田明 「こっちはもうすべて話した」
阿仁屋優 「まあ、そういうな。マンションまで送ってやろうか」
須田明 「いや、大丈夫」
阿仁屋優 「それともホテルでコーヒーでも飲むかい」
須田明 「やってないよ。頼むから放っておいてくれ」
阿仁屋優 「じゃあ、ここでもいいや。自販機でお茶を買ってきてやろう」

と肩を叩き、土手を駆け上がっていく。

○お堀端
少し離れた芝生の上に転がる須田と阿仁屋。赤坂プリンスホテルの敷地のようだが、草陰に隠れてまるで大都会のエアポケットだ。二人はすぐに話そうとせず、思うがままあたりへ目をやる。

阿仁屋優 「…自分勝手なのはいいだろう。昔からそうだし、だれだってそういう一面はある。俺のルポが中断させられたのもやむをえないかもしれない。だが、本当にああいう内容でいいんだろうか。最初の脚本にあったうわっつらへのこだわり、円城寺本来のフットワークのよさはどこへいったんだろうか。完成品を見るまで本当のところはわからないんだが…」
須田明 「…いやおうなく、周囲や自分を裏切っていく人っているでしょ。正直者なんですよ。なじめないんですよ。基準が違うんですよ。だから、変わったといえば変わったし、変わってないといえば変わってない…」
阿仁屋優 「だれのことを言ってるの。円城寺満、それともきみ自身?」
須田明 「阿仁屋さん、でもルポは止めないんでしょ?」
阿仁屋優 「あいつは、わざと誤解されようとするけど、俺は追いかけるよ。メジャー志向のマイナー野郎はたくさんいても、その逆は珍しいからな」
須田明 「…そういうことかなあ」
阿仁屋優 「須田くん、きみはいったい何を考えている」
須田明 「ぼくは、この映画の主役です。監督という役をやらせてもらった…」

と、ぼんやり空を見る。あらためて彼の姿を見入る阿仁屋優。

●湾岸道路(10月10日正午)
MGを飛ばす須田明。かたわらの景色にふと目をやり、車を路肩につける。地震のようだ。海浜公園の向こうに見える、高架の立体交差がゆっくり倒壊していく。

○デジタル合成編集室
モニター上で、同じ場面がレイヤーを組み替えながら繰り返される。画像処理を表わすバッチモジュールによって、少しずつなじませられていくのがわかる。

円城寺満 「その部分、もう少しブラーをかけたほうがいいね」

と、背後でインフェルノを操るDFXマンに声をかける。

そこへドアが開き、神妙な面持ちで部屋に入ってくる津村美沙。ソファの端に腰を下ろし、心ここにあらずといった表情で画面を見つめる。

円城寺満 「どうした、なんかあったのか?」
津村美沙 「…どうせ耳に入るだろうし、仕事のときのほうが冷静に聞けるでしょうから、言っておくわ。日比野まりが見つかったらしいの」
円城寺満 「沖縄に戻ってモデルでもやってるんだろ。終わったことはさっさと忘れたほうがいい」
津村美沙 「東京にいたのよ」

ぎくりと体を硬直させる円城寺満。

津村美沙 「病院から出てきて、迎えの男と一緒に帰ったそう」

かすかに震えている円城寺満。

津村美沙 「あなた、質問したくないの? その病院とは産婦人科で、男は須田明くんだったのよ」

自分自身をいさめるように深呼吸する円城寺満。

津村美沙 「須田くんって、山下さんといい仲だったはずなのに…」
円城寺満 「(彼女の目をじっと見つめて)この世界、何があってもおかしくない。この件は、それ以上騒ぐな」
津村美沙 「でも…」
円城寺満 「須田に対しても、その話はいっさいするな」

モニター上に映る、立体交差が倒壊していく場面。

●湾岸道路
路肩に立ち、道路を振り返る須田明。なんの変哲もない日常の風景。MGに乗り込み、車を発進させる。

○アフレコスタジオ
スクリーンを前に山下響子がマイクに向かう。タイミングを見計らいながら台本を手にテスト。手前の副調から指示を出す円城寺満。

山下響子 「もっと声を落としたほうがいいかしら?」
円城寺満 「任せるが、とくに感情を込める必要はないからね」

そこへ技師から何ごとか耳打ちされる円城寺。インカムを外し、顔をしかめる。

○同・ロビー
片隅のベンチで呆けたように待つ阿仁屋優。重たそうに防音扉が開き、円城寺満がやっと姿を現す。阿仁屋は腰を上げ、円城寺は軽く会釈。

阿仁屋優 「言いたいことはわかる。一つだけ話を訊きたかったんだ」
円城寺満 「俺もお前の言いたいことはわかる。門前払いしてもどうせ続けるだろうからな。完成したらインタビューでもなんでも答えてやるから、仕事の邪魔はしないでくれ」
阿仁屋優 「その仕事ぶりを追いかけるのが俺の仕事だ。監督にとって今回の須田明をどう思う? 彼に、お前のいったい何を投影しようとしてるんだ?」
円城寺満 「それは、すべて終わってからする質問だろう」

と、手を上げて立ち去ろうとする。

阿仁屋優 「違う。いま訊いておかないと、沖縄の意味が変わってしまう」

円城寺は無言のまま扉の向こうへ消えていく。

●干潟(10月10日午後3時)
堤防から東京湾の干潟を眺める須田明。周囲にはだれ一人おらず、近くのスピーカーから「津波警報は解除されました」とのアナウンスが繰り返される。

○アフレコスタジオ・駐車場
石塀にもたれ、二つ目の缶コーヒーをすする阿仁屋優。もう一つの空き缶は煙草の吸殻でいっぱいだ。そこへアフレコを終えた山下響子が付き人とともに現れる。

山下響子 「あら、私を待ってたの?」
阿仁屋優 「ちょっとお話したいことが…。よろしければ近くの喫茶店で」
山下響子 「だったら車に乗りながら伺うわ。どうせ居場所がないんでしょ」

と、付き人が開けたキャデラックの後部席を示す。

阿仁屋優 「あとで須田くんにも会いたいと思ってるんです」
山下響子 「彼が入るのは夕方。ナレーションがけっこうあるから、終わるのはきっと明日の朝ね」

○キャデラック車内
曲がりくねった抜け道で揺られる後部席の二人。

山下響子 「あなたも表面的にしかわかってないわね。もっと私や津村さんの話を聞くべきじゃないかしら」
阿仁屋優 「この映画、いや監督の女々しさについて?」
山下響子 「女々しさと女の視点は全然違うわ」
阿仁屋優 「でも、通俗性もテーマの一つですよね」
山下響子 「その意味、本当にわかってる?」
阿仁屋優 「だから山下さんがこの作品に関わってきた経緯を、おさらいしておきたいんです」

○首都高速(夕方)
高架の待避所に急停車するキャデラック。後部ドアが開けられ、阿仁屋優が放り出される。

○同・待避所
一人残される阿仁屋優。ぶつくさ毒づくが、顔を上げて頬をゆるめる。我が身を真っ赤に染め、見たこともないほど美しい夕陽が都心を照らす。

阿仁屋優 「東京にも、こんな夕焼けがあるのか…」


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